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ここ何年か、夏になると高山建築学校に参加するのが定例となっている。毎夏1か月間学生たちが合宿し、生活を共にしながら建築の修練をする学校である。学校が始まった頃は旅つづきだった。そんな学校が7年目にやっと定着した。そこは飛騨・数河という標高750m、粛条として輝く壮大な北アルプスの山々が眺望できる自然の中である。私たちはそこで、自分たちで絵を描き、それをつくる。いつかはこの学校を工房として機能させようと。
建築の学び方にはさまざまな方法が考えられる。高山建築学校での修練が建築と建築に対する生き方を感じさせてくれたことなど記してみたいと思う。
そこには“既存の大学や個々の学部等の枠組みを超え、教える側も学ぶ側も同じ基盤にたってお互いの精神と肉体を含めた全人格的営為として建築を学ぶ”という独自の試みがなされており、氏素性・老若男女を問わず、志さえあれば誰でも所属でき、深く建築の修練ができるという。
実社会での仕事の環境と自ら解決すべき根源的で素朴な建築への疑問とのその矛盾の相を、私自身の体とともに一度高山建築学校に託してみたらという思いが、日常での生活を断ち切って高山に向かわせたのであろう。
少人数の仲間が合宿して生活全体を共に、飯もつくりながら具体的作業を通じて活気づいている。マンツーマンあるいは集うすべての者とのプロジェクトの応答、これは非常に手きびしい批評を受ける。薪ストーブを囲み、冷や酒をくみかわしながらの建築の苦心談。
柱頭装飾の木彫りに一日を費やし、日暮れのサッカーの試合、それから夜が白けるまで製図板に向かい、本校舎建設の片隅の細部詳細に固執し、一心に手を動かしている姿などの日常の風景は、精神的にも肉体的にも自分の体の限界ぎりぎりまで物に立ち向かわせ、“建築というのは物によって感性も情念も自分自身をもつなぎとめておくものかもしれない、これが建築の一端なのかもしれない”という忘れ得ぬ実感を与えてくれた。
生きた自然と労働に根をおろした全人格的営為として建築を学ぶという高山建築学校独自の試みは、それでも自然からの距離を保ちながら自分自身の内に建築の原型を求めるという造形の根源に触れさせ、さらに形象への畑を耕すという地道な作業は確かな建築へと導くであろう。そのような“つくる以外に建築はない”というそこでの実感の積み重ねと、教え伝えでないと学び得ない修練が、私に建築と建築に対する生き方を感じさせてくれた。
建築の杖はひとつではない。無限の可能性がある。これまで高山建築学校が多年にわたって継続してきた試み、設計プロジェクト、模型設計、道具部品の実物製作、講演と討論は新しい形の発見とか美学的手法をつくるとかの練習の場ではない。
今、建築が専門分化し非常に高度に抽象化され観念化されていく一方で、建築を他の極、すなわち人間の全体性に結びつけなおす総合への試みがなされてよいであろう。
この創造と生産の合体、全人格的営為として物に自身を立ち向かわせるという試みは、縦関係の混在的共同体であるがゆえに、学ぶ個人にとってそれぞれの水準において必要な時に必要な糧が得られ、同時代感覚や人間の論理構造や知、美に対する洞察力を拡大してくれる。それら過渡的な物事の断片の中に、あるべき共同体の隠喩的現在を萌芽させている。
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