建築雑誌 Vol.97 No.1192 1982年 4月号
高山建築学校
設計事務所における自己教育の場
建築を学ぶ学び方にはさまざまな方法が考えられる。現在私は高山建築学校(倉田康男事)に所属し、岐阜の片田舎で個人設計事務所を営みかろうじて生計をたてている。高山建築学校での修練が建築と建築に対する生き方を感じさせてくれたこと、自分なりの仕事を始めてみようかなという決心をいだかせたことなど記してみたいと思う。
私は学校を卒業すると設計事務所に勤めだした。在学のころは奈良や京都が近いせいもあって斑鳩の堂塔や紫野の方丈、枯山水の庭園などに美しさを求め歩いていた私だが、とにかく建築の設計に進みたいと決めていたように思う。学部での基礎教育や自己流の近代批判などからでは建築という現象が理解できなかったし、どういうふうに建築を学んだらよいのか一人で思いをめぐらしていたとき、高山建築学校の存在を知ったのである。
そこは"既成の大学や個々の学部等の一切の枠組みを超え、教える側も学ぶ側も同じ基地にたってお互いの精神と肉体を含めた全人格的営為として建築を学ぶ"という独自の試みがなされており、氏素性・老若男女を問わず、志さえあればだれでも所属でき、深く建築の修練かできるという。実社会での仕事の環境と自ら解決すべき根源的で素朴な建築への疑問とのその矛盾の相を、私自身の体とともに一度高山建築学校に託してみたらという思いが、日常での生活を断ち切って高山に向かわせたのであろう。
|
|
|
建築を学ぶ
そこは私塾ではあるが学校という名前をもっていることは非常によいことだと思った。飛騨高山近郊古川町数河という標高750m、粛条として白く輝く壮大な北アルプスの山々が眺望できる自然の中に学校は開設されていた。近代建築の状況に対して素朴な飢餓感を抱きつづけている叡智が、学校の理念的なものに気楽に集まっていた。少人数の仲間が合宿して生活全体を共に、飯もつくりながら具体的作業を通じて活気づいている。マンツーマンあるいは集うすべての者とのプロジェクトの応答、これは非常に手きびしい批評を受ける。薪ストーブを囲み冷や酒をくみかわしながらの建築の苦心談。柱頭装飾の木彫に1日を費やし、日暮れのサッカーの試合、それから夜のしらけるまで製図板に向かい本校舎建設の片隅の細部詳細に固執し、一心に手を動かしている姿など日常の風景は、精神的にも肉体的にも自分の体の限界ぎりぎりまで物にたち向かわせ、"建築というのは物によって感性も情念も自分自身をもつなぎとめておくものかもしれない、これが建築の一端なのかもしれない"という忘れ得ぬ実感を与えてくれた。
生きた自然と労働に根をおろした全人格的営為として建築を学ぶという高山建築学校独自の試みは、それでも自然からの距離を保ちながら自分自身の内に建築の原型を求めるという造形の根源にふれさせ、さらに形象への畑を耕すという地道な作業は確かな建築へと導くであろう。そのような"つくる以外に建築はない"というそこでの実感の積み重ねと、教え伝えでないと学び得ない修練が、私に建築と建築に対する生き方を感じさせてくれた。 |
|
|
共同体と時間との関係
繰りかえされる毎夏の断片は私の建築に対する情熱に持続の活力を与えてくれるし、個人設計事務所の特性としての孤立化からも開放してくれる。
自力建設により本校舎をつくることを通じて集うすべての者が、一切の枠を超えて激しくぶつかり合い、時には夜を徹しての討論の連続となる。このような共同体、複数視点での潰密な様態は精神的にも肉体的にも学ぶことを欲する個性と個性がぶつかり合い、解体され再構成される。そして同位の欲求を持つ者のそれぞれの限りある個性の枠を超えて、共同体と時間との交錯する新しい形での価値構造をつくりだす。それは共同体の精神にも直接ゆきぶりをかけるであろうし、学ぶ個人にとっても自分自身の精神の中にさらに矛盾を激化させ、たえざる建築の出発点にと引きもどし、その過渡期を持続させる役目をはたしてくれる。
建築の杖はひとつではない。無限の可能性がある。これまで高山建築学校が多年にわたって継続してきた試み、読計プロジェクト、模型製作、道具部品の実物製作、講演と討論は新しい形の発見とか美学的手法をつくるとかの練習の場ではない。「建築の中に全体性を恢復する事にある」※1。
今建築が専門分化し非常に高度に抽象化され観念化されていく一方で、建築を他の極、すなわち人間の全体性に結びつけなおす総合への試みがなされてよいであろう。この創造と生産の合体、全人格的営為として物に自身をたち向かわせるという試みは、たて関係の混在的共同体であるがゆえに学ぶ個人にとってそれぞれの水準において必要な時に必要な糧が得られ、同時代感覚や人間の論理構造や知、美に対する洞察力を拡大してくれる。それら過渡的な物事の断片の中に、あるべき共同体の隠喩的現在を萌芽させている。 |
|
|
建築をめざして
建築には自然感、機能、造形、社会など多くの側面があるが、それとどのような関係をとり結んでおくかというところにその人なりの理念が表れてくる。だがどれほど崇高な理念であろうと、それが視覚に集合される形象に表出されていなければ意味がない。感性も情念も物化されていなければその見えない建築は水泡に帰してしまう。建築が建築であるためのすべてはそこにさらされている建築の関係の構造そのものでしかあり得ないのだから。
それは「建てないで建築を考える事はできないと言う事である」※2。高山建築学校においては実践的手法はまだ確立されていないと言ってよい。しかし現在試みられている共同体での全体性を恢復するという価値決定の多義的な側面、修練された感性などは、自力建設により本校舎をつくるという具体的"物に収束"されたとき、その物のつくられ方の中に自らの手法を見定めさせ、「P.ソレリのアーコサンティほどの閉鎖性、教祖性に流されず、かと言って、毒にも薬にもならぬ、ドゥー・イット・ユアセルフや、令目的性を基礎とする能率的なセルフビルド方式とは確然と一線を敷いた、真の新しさを建設方法として所有したものになるであろう」※3。生きた自然と労働に根をおろし、存在が思惟を規定するという系譜は確かな価値意識をもたらし、実社会の生産、供給の構造にまで直接かかわらせ、碓かな実践的手法として顕示されることであろう。 |
|
|
高山建築学校の小史
高山建築学校パンフレットより学校の設立の背景など簡単に紹介してみたい。第一期高山建築学校(1972〜1976)は「近代の確認」を主テーマとして、延べ講師数57名、延べ参加学生数94名、その他連続シンポジウム、セミナー等への参加学生数は100名を超える。各地の廃校施設を借用しながら移動を続けてきた放浪学校から、常時開設の第二期高山建築学校(1979〜)として飛騨高山近郊古川町数河に定着し、「日本固有の空間手法」の確立と可能性の追求を主テーマとして再び歩み始めたのである。
■カリキュラム
カリキュラムの基礎となる姿勢は、現代および個、または共同体としての人間そのものの確認、および行為をうらづける正当な手法の発見と確立、という点に目標をしぼって構成されている。
【研究活動】
・建築の背景をなす一般文化、科学の諸問題
・建築の歴史にかかわる諸問題
・建築の可能性にかかわる諸問題
・建築の設計、生産、供給にかかわる諸問題
・造形の社会的な意義または効果にかかわる諸問題
【教育活動】
・一般文化、科学にかかわる諸問題
・基礎造形についての諸問題
・計画法、造形法にかかわる演習
・実践的教育活動-の参加
・共同体維持のための作業への参加
【公報括動】
・定期刊行を通じての学校の成果の即時公開
・シンポジウム、セミナー等の開催
・出版物等を通じての学校の成果のまとまった公開
【学校建設】
・学校施設の建設は、そのまま実践的な研究を教育の一部として実施される
■開設の背景
他のさまざまな近代主義の所産とともに近代建築もその終末と再生の狭間にあって、混迷と模索の様相をもって漂泊をつづけている。いろいろの場所においてなにがしかの試みがなされてはいるものの、総体的には混迷と模索の様相を示しつづけている。いまだに誰も現代建築やそれをとりまく環境の望むべき進路を定かに指し示していない。すべてのものが新たなる自己の存立と確認証明をはからねばならないというこのような状況の下にあって、一人の人が本当に学ぶことを欲したときに、これに応えるには教える側も学ぶ側も同じ基盤にたってお互いの精神と肉体とを含んだ身体の水準で共に考え、新しいかたちでの建築のための学校を試みることが唯一の可能性を秘めた方法である。
■開設の目的
精神と肉体を含めた全人格的営為として建築を学ぶ場所や施設が、大学を含んで既存の社会の中には見いだし得ない。学問のレベルでも情念のレベルでも、はば広い視野を獲得する適切な機会がない。高山建築学校はこのような認識を背景にして、ここに集うすべてのもの - 建築の生産、創造の職能者や環境形成の専門家、建築や環境の教育研究者の間においても、主催者も企画者も協力者も参加者も - がひとしく新たなる起点より歩み出し、広い視野からの状況の再検討を出発点とし新たなる再学習を通じて新たなる自己の存立と形成をはかり、新たなる思想の培養を試みるほかあるまい。このような状況の素朴な飢餓感がその設立の理念をつくる原動力となって、高山建築学校は1972年夏期を第1回として開校されたのである。
【注】
※1 鈴木博之:空論を排す、高山建築学校パンフレットVo1.1、1978
※2 倉田康男:繰り返される夏、建築文化,7911
※3 石山修武:六番町で高山で、都市住宅,8010 |